日本の対外戦争と世界の情勢

アクセスカウンタ

zoom RSS 日露戦争・その九

<<   作成日時 : 2007/01/26 15:31   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

日露戦争(1904(M37)/2-1905(M38)/9)直前,日本が 2 月 6日に日露の談判及び国交の断絶を通告してから, 2 月 10 日に露国に対する宣戦布告の詔勅公布通告を行うまでの 5 日間の国内外の論調と交戦情況とについて,紹介したいと思います。外務省編纂・外務省蔵版 日本外交文書 第三十七巻第三十八巻別冊 日露戦争一 日本国際連合協会発行 第一章開戦関係等を参照しながら、考察を加えることにします。各文書の最初にある [04/2/6七]等は[1904(M37)年2月6日付け文書七]等を表します。

(一) 国交断絶
[04/02/06七]在英国林公使より小村外務大臣宛(電報)
日露談判断絶通告に付き英国外務次官補よりの公文受領並びに英国外相談話の件
(概略) 外務次官補カムベル氏より,「英国政府は同盟国として協約上の義務を履行する。云々」との公文を受領した。同日ランズダウンス侯は本官に告げて曰く,「駐米英国大使を経て確かめたる所に依れば米国政府に於いては今回の紛争に干渉するの意更に之あるなし。」と。
[04/02/07九]在仏国本野公使より小村外務大臣宛(電報)
仏国外相に通告並びに露国政府公表の件
(概略) 外務卿デルカッセー氏は唯「深くこの事態を遺憾とする。」の意を表されたるのみ。
アヴァス通信社は露国政府の公文を公表し,下の如く論述した。曰く,「近日発送せられたる露国回答の到来をすら待たざりし日本政府の行為たるや外交関係破裂並びに之が結果に対する責任を挙げて全然日本に帰せしむべきものなり。」と。
[04/2/8一二]在英国林公使より小村外務大臣宛(電報)
露国の正式宣言に関し英国外相と談話の件 附記 在英国林公使来電第六二号
二月八日前二・五五倫敦発 九日前二・二五東京着
小村外務大臣 在英林全権公使
第六三号 (本文省略します)
(附記)
二月七日倫敦発 八日東京着 小村外務大臣 在英林全権公使
第六二号
「ロイテル」電報に拠れば露国政府は其の在外使臣に宛て日露外交関係の断絶を通知し併せて之より生ずる結果に対する一切の責任は露国回答の到来をすら待たざりし日本に於いて追うべきものなりと云えり。電信を二月七日を以て公にせりと察するに是れ露国が世界に対し自己の地歩を弁護するに於いて我が機先を制するの術なるべし。
[04/02/08一三]在英国林公使より小村外務大臣宛(電報)
二月八日后一一・○○倫敦発 九日前九・五○東京着
小村外務大臣 在英林全権公使
第六四号
「タイムズ」「スタンダード」「デーリー・テレグラフ」及び「モーニングポスト」の諸新聞紙は各其の社説に於いて目下の時局に対し責任を有するものは日本にあらずして露国なりと論述し而して帝国の主張に対し満腔の同情を表せり。英国新聞紙は一般に帝国の行動が目下の形勢に於いて正当なるものなることを多少強硬の論調を以て指摘し居れり。
[04/02/09一五]在独国井上公使より小村外務大臣宛(電報)
日露決裂に関し独紙論評並びに露国公債下落の件
二月九日后二・○○伯林発 十日前九・五○東京着
小村外務大臣 在独 井上特命全権公使
第四六号
「ケルニイッセ・ツァイッング」新聞は半官的に論評して曰く,日露衝突に関する独国の態度は甚だ単純なり。独国は是迄日露両国間に戦争の惨禍を避け得んことを熱心に希望したり。独国今後の政策は東亜に於いては今回の衝突より此の上の紛擾を生起せしめず,且つ清国領域中戦場に近き部分を撹乱し,之をして戦場たらしめざるの方針に依るべし。而して此の目的を達せんが為に独逸は誠実に厳正中立の政策を執るべし。その独国は現下の紛糾に乗じて領土を獲得し,依って以て自ら利せんとすと云うが如き推想は全然無根なり。
伯林取引所に於ける露国公債は輓近の事変の為に百分の二半下落せり。
[04/02/09一六]在独国井上公使より小村外務大臣宛(電報)
日露交渉の決裂に関し新聞発表の件
二月九日后七・二○伯林発 十日后二・一○東京着
小村外務大臣 在独 井上特命全権公使
第四七号
貴電第四五号に関し諸般の記事中本官が昨日東京来電として掲げしめたる分は帝国に対し著しき好感を生ずるの結果を呈せり。其の記事の概要左の如し。
「日露外交関係の断絶は日本より一月十三日を以て致したる公文に対し露国政府が三週間以上も回答を遷延したると,露国軍隊が公然進動して韓国付近に軍略上の地点を占拠したると,に因る。此等の事実は啻に日本をして其の忍耐を竭尽せしめたるのみならず,又此の上時局の解決を緩慢にするは其の利益と相容れずとの感念をも起こさしめたるなり。」
右の記事,及び帝国政府は露国の回答を接受せりとの事を否認したる記事,当国新聞上に載録せられ我が国に対し多大の同情を惹起すに至れり。
(註)往電第四五号は二月十八日発なるを以て右電信番号は電報の誤りなり。

以下の引用は新聞集成 明治編年史 財政経済学会蔵版 第十二巻自明治三十六年至同三十八年 日露戦争期 からのものです。[04/02/09東朝]等は[1904(M37)年2月9日発生事件の東朝記事]等を表します。
[04/02/09東朝]二月十日付け東朝 日露開戦劈頭の快報 仁川港外に露国の二艦を捕獲
(前略) 猶又その後信憑するに足るべき報道到着したり。これに従えば,昨日正午頃仁川港外に於いて,我が艦隊と露艦との間に砲火を交えたる旨,仁川陸上に在る者より通報ありたり,開戦の事実あるものと認む。(後略)
[04/02/09東朝]二月十二日付け東朝 旅順大海戦公報
聯合艦隊は去る六日佐世保を出発したる後,総て予定の如く行動し,八日正午我が駆逐艦は旅順にある敵を攻撃せり。当時敵艦隊の大部隊は旅順港外にありて我が駆逐艦隊の水雷に掛かりしもの少なくとも,ポルタワ型一隻,巡洋艦アスコルド外二隻ありしものと認む。我が艦隊は九日午前十時旅順港口沖に達し,正午より約四十分間港外に残留せる敵艦隊を攻撃せり。此の攻撃の結果は未だ明瞭ならざるも,敵に尠からざる損害を与え,大いに彼が士気を阻喪せしめたるものと信ず。敵は漸次港内に逃走するものの如し。午後一時戦闘を止め引き揚げたり。此の攻撃に於ける我が艦隊の損害は軽少にして,寸毫も戦闘力を減ぜず。死傷は約五十八名にして,内戦死四名負傷五十四名なり。
仁川方面に向かいたる分遣艦隊の戦況は,既に瓜生司令官より直接電報せるが如し。我が駆逐艦隊は敵の砲火を冒して攻撃を果たし,其の大分は既に本隊に合せり。艦隊に御乗組の各殿下は皆御無事なり。我が将卒一般の戦闘に従事せる状況は頗る沈着にして,恰も平常の演習に異ならず。戦闘後に於ける士気は益々旺盛にして,而も挙動は愈々沈着なり。今朝来風波ありて,艦船間の交通不通なる為,未だ各艦よりの詳報に接せず,不取敢右概況のみ報告す。
二月十日 東ク聯合艦隊司令長官
[04/02/09官報]二月十三日付け官報 仁川港外に敵艦二隻を撃沈
九日正午露国軍艦「ワリヤーグ」及び「コレーツ」仁川港より出で来たる。八尾島東方に仮泊せる我が艦隊は,之を八尾島以西に遊撃す。戦闘三十五分間,「ワリヤーグ」は八尹速射砲弾丸三,十五拇速射砲弾丸七を受けたるが如く,後艦橋付近破壊し,後部に大火災起こり,被害大にして,「コレーツ」と共に仁川港に退却せり。午後四時三十分仁川港に於いて爆発の大なるものあるを見る。依って水雷艇をして偵察せしめたるに,此の爆発は「コレーツ」なりし如し。今露艦二隻とも破壊沈没し,露国東清鉄道会社汽船「スンガリー」も同様なるを知れり。我が艦隊は損害なく,又一の死傷者もなし,我が軍大いに振るう。(九日午後仁川港外旗艦浪速に於いて)
[04/02/10毎日]二月十一日付け毎日 快報到達の第一夜 全都熱狂 炬火行列・・・旗行列
昨夜の街頭 ○快電,連なるに至るを以て全都の市民全く狂せるが如く,昼間の景況は第三面に報ずる通りなるが,夜に入りては各商店の花瓦斯を点じ電灯装飾をなしたるもの少なからず。且つ黄昏より慶応義塾二千余人の炬火行列あるや,次いで恵比寿ビール会社,日本橋魚市場,青年立志会及び津村順天堂の行列あり。何れも大勝利の大旗を真っ先に押し立て,各々手に球灯をさげて大路をねり歩き,銀座通りの如きは陸続数千人万歳連呼天地もゆるがん許かりなりき。又日比谷公園にも期せずして会せし者数百人ありしが,恰も門口に酸漿提灯を売れるをみて我も我もと之を求め同じく行列を試みたるもありたり。かかる有様なれば到る処の小料理店は在京軍人を始め,其の他の人々万歳声中に祝杯を重ねるため思わぬ混雑来たし,是処も彼処もときの声に埋もるるなど実に勇ましき限りなり。又午後七時日本橋京橋,神田の有志団体よりなれる祝捷会員約一千五百名海軍省に押しよせ万歳を連呼するや,井出副官故らに門を開かしめたるに,一同潮の崩るるが如く玄関前に押しよせたるより,山本海相,斉藤次官,伊東軍令部長,伊集院次長,其の他居合わせたる省員一同玄関に出で祝意を受けたり。
[04/02/10中外商業]二月十一日付け中外商業 株式本場暴騰 新東二十五円高 
昨日,本場に沸騰したる東京株式市場の諸株は,大勢上進の商状を呈すべき運命を有すれども,併し彼の沸騰の如きは稍々其の度を失せり。今朝は却って引緩を示さざるべきかと予想せる者多かりしが,俄然旅順に於ける我が艦隊の捷報至りたれば人気は再び沸騰し,(中略)日鉄は先ず六円以上の突飛を為し,以下の諸株は其の割には奔騰せざりしかども,而も大抵一円五十銭乃至三円の騰貴を為し,市街は又六円八十銭高,東株の如きは実に二十五円五十銭の沸騰を為し,買い方さえ呆然自失せしめたり。(下略)

戦後日本の教科書から引用します。
[04/02/08山川出版]詳説日本史 (昭和 58 年 3 月 5 日発行) 271 ページ 
(日露戦争要図の補足説明)
1904 年 2 月 8 日,陸軍は仁川上陸,海軍は旅順を奇襲して戦端がひらかれた。このほか,樺太でも作戦行動がおこなわれた。この戦争は,日本の軍事力の優勢と旅順などにおける多くの犠牲によって,勝利がもたらされた。
(本文から一部抜粋)
いっぽう満州方面においては,ロシアはさらに軍備を増強し,その勢力は韓国国境をこえるようになった。この情勢をみた日本は,開戦の決意をかためて慎重に機会をうかがい, 1904(明治 37) 年 2 月,ロシアに宣戦を布告し,満州を舞台とする日露戦争がはじまった。(何故,宣戦布告日を 1904(明治 37) 年 2 月 10 日と明記しないのだろう。何らかの意図がないことを祈るのみです。−−−藍愛和070126)

再び,日本外交文書から引用します。
(二) 公使引揚 略
(三) 利益代表国 略
(四) 戦時平時区分 
[04/02/18五七]山本海軍大臣より小村寺内両大臣宛て
戦時平時区分決定照会の件 付属書 閣議提出案
写 官房機密第四二五号
戦時平時区分の件に付き別紙の通り貴大臣連署を以て閣議に提出致され度く候条異存之無く候わば,捺印の上内閣へ送付相成られ度く,此の段照会に及び候也。
明治三十七年二月十八日 海軍大臣男爵 山本権兵衛
外務大臣男爵 小村寿太郎殿
陸軍大臣   寺内 正毅殿
(付属書) 閣議提出案 官房機密四二五の二 戦時平時区分の件
今回露国と戦端を開きたるに付いては,我が国が戦時の状態に移りたる時機を明らかにするの必要を認むるを以て,本月六日即ち政府が日露両国の外交断絶したるを以て我が国は自由行動を執るべき旨を宣告したる日より戦時と定められ度し。右は事重大なるを以て茲に閣議を請う。
明治三十七年二月十八日
           陸軍 大臣 寺内 正毅
           外務大臣男爵小村寿太郎
           海軍大臣男爵山本権兵衛
内閣総理大臣伯爵 桂 太郎殿

[コメント] ブリタニカ国際大百科事典から戦争の開始について,関連項目を引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−
国際法上,戦争開始のためには,いずれか一方の当事国による戦意の表明が必要である。戦意の表明には慣習法上に定まった形式はない。グロチウスやバッテルはその形式として宣戦の必要性を説いたが,実際上,各国とも宣戦を行わない例が多かった。 1904(明治37)年の日露戦争において,日本は宣戦なしに武力行使に訴え,各国の非難を招いた。この非難を契機として, 07 年のハーグ平和会議において「開戦に関する条約」(同会議第三条)が成立した。この条約は,戦争開始のためには「理由を附したる開戦宣言の形式又は条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且つ事前の通告」を必要とすると規定した。第一次世界大戦においてこの規定は遵守された場合が多かったが,第二次世界大戦の際には無視された。なおこの条約に反する形式で武力行使が開始された場合,条約締約国である攻撃国は条約違反の責任を負うが,戦意の表明さえあれば,国際法上戦争状態の存在は認められる。
−−−−−−−−−−−−−−−−

欧米列強の植民地支配体制が強化される中,日本は国家存亡の危機にあるとの認識が国の隅々にまで行き渡っていました。そして,当時の世界情勢から,英米二国は日露関係については日本の行動に対して表立った批判をしませんでした。寧ろ黙認する態度を見せていたと思います。
そして又,20世紀当初の世界には,戦争について未だ確たる共通認識がありませんでした。たまたま,インターネットで検索していて,次のような HP に接続しました。
戦数:
http://nankinrein.hp.infoseek.co.jp/page027.html

戦数という言葉は初めて見ました。「数」という文字は例えば「権謀術数」という四字熟語に使われているのと同じ意味かと思います。戦時において一国の軍隊が危機に瀕した時はその状況を脱するために必要な術数は,戦争法規を無視して行使できる,と言った考え方かなと思いますが,間違っていましたら御叱正下さい。

日露戦争の開戦手順に拘るのは,後に日米太平洋戦争で真珠湾攻撃が起こるからであります。日露戦争での成功によって,日本海軍が日米戦争でその再現を狙ったとしたら,滔々たる時代の流れから孤立した日本の姿に今更ながら慄然とせざるを得ません。かの大英帝国でさえ,日露戦争前に日英協約,戦中に英仏協商,戦後に英露協商を締結しています。一方,大日本帝国は第一次世界大戦後の対中二十一個条要求,国際連盟脱退,独裁者達ヒットラー・ムッソリーニ・スターリンとの同盟を経て,1945 年 5 月 7 日から 8 月 15 日まで丁度百日間,世界中を相手に戦争する羽目になりました。

20世紀における日本の歩みは,百日戦争をクライマックスとして初めて経験する無条件降伏と全国焼土化,そしてそこから世界第二の経済大国平和主義国家日本への転生という,正に我々現代の日本国民が学ぶに最良の教材というべきでありましょう。我々現代の日本国民は今こそ父母・祖父母・曾祖父母の実体験から日本が世界に発すべき哲学を創造する秋に遭遇していることを肝に銘じて,新哲学創造に邁進しなければなりません。
(記入:07/01/26 15:30 藍愛和)

新哲学創造と言っても,我々庶民は何もデカルト,カント,ヘーゲル,マルクス,ケインズ,デューイ,サルトル等の難解な哲学をもう一つ造ろうと云っているのではありません。日本人の二千有余年の経験,知識,思想,宗教等を基に,現実をよく見て,現代の科学理論,技術と矛盾しない,誰にでも理解できる哲学を造ろうということであります。そのためには,先ず日本人は日本について勉強します。過去の哲学者達の理論について可能な限り理解しようとする努力をします。現実の世界はいかなるものであるか,世界中の人種,民族,国家,社会,団体,集団等について全体的に調査します。現代の科学理論,技術について出来るだけ多くの知識を収集します。そして,その勉強,努力,調査,収集等から得られた結果をインターネットなどを通じて世界に発信します。現代の世界はユビキタス社会になりつつあります。誰でも,いつでも,どこでも哲学しようというわけです。哲学するとは上記の勉強,努力,調査,収集,発信等のどれかを哲学を意識して実行することであります。哲学を意識するというのは,全体,普遍,共通,継続,真理,相互批判,自己反省等を意識することであります。相互批判と自己反省は欠くことができません。
(追記:07/01/27 08:00 藍愛和)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
日露戦争・その九 日本の対外戦争と世界の情勢/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる