日本の対外戦争と世界の情勢

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zoom RSS 日露戦争・その七

<<   作成日時 : 2006/10/15 16:55   >>

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日露戦争(1904(M37)/2-1905(M38)/9)直前の満韓に関する日露交渉について、外務省編纂・外務省蔵版 日本外交文書 第三十七巻第一冊自明治三十七年一月至明治三十七年十二月 日本国際連合協会発行 事項一 満韓に関する日露交渉一件等を参照しながら、考察を加えたいと思います。日本は桂太郎軍人内閣の下、日露決戦必至との覚悟を以て露西亜を始めとする韓国・清国等諸外国との国家存亡を賭けた外交交渉を進めます。日本外交文書第三十七巻第一冊は現在の我が国の外交交渉にとっても参考とすべき多くの主義・主張、方法、策略、問題を含んでおり、必読の価値ある文書に満ち満ちています。このページでは大抵各文書の表題或いは表題と要約のみ表示します。表題を見るだけでも日本の当時の外交が如何に行われたかを知ることが出来ます。詳しくは図書館等で、日本外交文書そのものをお読み下さい。各文書の最初にある [1/1一]等は[1904(M37)年1月1日付け文書一]等を表します。

[1/1一]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) 満州問題に関する露帝の決心及びウイッテ等の態度に付き英大使談報告の件 第一八四号電信 皇帝は戦争決意らしきもウイッテ等重臣は皇帝に対して日露間戦争は輿論と最も相背馳すると進言云々。
[1/1三]在英国林公使より小村外務大臣宛(電報) 日露衝突不可避の場合開戦前に英の財政援助を得度き旨の懇請に対し英拒否的回答の件 本官はランスダウン侯に会見し、援助に関する貴電の趣を話したが、侯は日本の位地に同情しながらも英国財政事情を理由に出納尚書の難しとする所なりと言った。本官は再考を求めたが、侯は本官の陳説を傾聴、再考を示唆した。援助について多少の望みあり、本官は今後引き続き尽力する積もりである云々。
[1/2五]小村外務大臣より在露国栗野公使宛(電報) 露帝の主戦的態度並びに我が対露提案の妥当性に付き英公使に説明の件 本邦駐在英国公使は貴電第一八四号所載と同趣旨の報道を内密に本大臣に与えた。本大臣は露帝は現下主戦派の勢力の下にあり、対日友好派のラムズヘルド伯其の他の重臣の希望はその功を奏することは殆ど望むべくもないことを述べた。英公使は日本の譲歩について訊ねたので、本大臣は日本の提案の妥当性と譲歩の余地のないことを答えた。英公使は日本の提案の穏当なることは本国に報告済みであるが、在露英大使は日本の提議は未だ不可減的最小限にあらずとのの誤想を懐き居るものの如しと述べた。
[1/2六]小村外務大臣より在米国高平公使宛(電報) 日露交渉に於ける露国の遷延策及び我が方の平和的努力に付き米政府へ説明方訓令の件 貴官は米国政府が帝国政府行動に好意的であることに対して同国政府に謝意を述べ、次のように附言せらるべし。帝国政府は常に平和的政策を固守し続ける積もりであるが、露国が海陸の軍備を増強するために遷延策を弄するのではないかと恐れる。帝国政府の行動は自衛の為のみならず、日・米・英三国の対清基本政策である清国の領土保全及び清帝国内に於ける列国の商業的均等維持を期するにありとして帝国政府の窃かに以て満足とする所なり。而して露国も亦全然上記諸原則と相一致すとは露国がしばしば自ら声明したる所なり。
[1/2七]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) 時局に関する露国特別委員会の模様に付き在露米大使仏公使の談報告の件 委員会でも露国商業社会でも平和の見を採る者多し云々。
[1/2八]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) 満州問題に関し露帝はベゾブラゾッフの意見に動かされる居るの件 
(ベゾブラゾッフ或いはベゾブラゾフ?ベゾブラーゾフ?については次を参照:
ロシアの韓国中立化政策 -ウィッテの対満州政策との関連で-: http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/46/soku/soku1.html 
日露戦争直前外交:http://ww1.m78.com/sib/diplomacy%20before%20the%20war.html)
[1/3九]小村外務大臣より在英国林公使宛(電報) 英国の対日財政援助の意義に関し英公使に説示並びに同国政府の再考方希望申し入れの件
[1/3一○]在墺国牧野公使より小村外務大臣宛(電報) 日露交渉に関し露外相は好望を抱き居れる由との情報の件
[1/4一一]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) 日露交渉に関する露国外相露帝等の態度に付き在露墺大使の談報告の件 
[1/4一二]在仏国本野公使より小村外務大臣宛(電報) 独国の日露間調停の風説報告の件
[1/5一三]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) 露国は輿論の反対に鑑み開戦躊躇の風ある旨報告の件
[1/5一四]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) 時局に関する露国特別委員会議の模様続報の件 某氏(恐らくはウイッテ氏ならん)は満州に於いて日本に譲歩すべき旨を主張したるため皇帝には頗る御不満足なりしと云々。
[1/6一五]小村外務大臣より在清国内田公使宛(電報) 第六号電信 日露万一開戦の場合清国に中立を勧告方訓令の件 帝国政府は尚平和の為に尽力するが万一開戦の場合は清国が中立の態度を守るを得策とする。しかし慶親王との対話に余地を存し置かるべし。将来帝国政府の政策変更があるかも知れず、又秘密にして且つ有益なる援助を得るは帝国政府も歓迎すべし。帝国政府は此の二重の目的を遂行するに付き偏に貴官の才能と判断に信頼するものなり。
[1/6一六]小村外務大臣より在英国林公使宛(電報) 時局に関する任国の輿論及び任国政府の態度報告方訓令の件 (英文の本文(省略)の後に次ぎのような要請が書かれています。
Telegraph the above to six ministers except 在露公使 as my instructions. )
[1/6一七]在仏国本野公使より小村外務大臣宛(電報) 独国の日露間調停の風説に付き在仏独逸大使否定の件
[1/6一八]在独国井上公使より小村外務大臣宛(電報) 日露関係に関する独国新聞論調報告の件
[1/6一九]在独国井上公使より小村外務大臣宛(電報) 独国の日露間調停の風説打ち消しの件
[1/7二○]小村外務大臣より在露国栗野公使宛(電報) 露国公使提出の露国政府復答に関する件
[1/7二一]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) ベゾブラゾッフより日本が韓国に出兵準備中との報道に付き申し越しの件(一)(二) 
一月七日后四、○○彼得堡発 八日前四、一○東京着
小村外務大臣 在露栗野公使
第一七号 ベゾブラゾッフは一月七日の朝、田野通訳官を招見し之に告げて曰く、日本は示威運動の為韓国へ出兵の準備中なる趣、数時間前アレキシエフ総督より電報ありたり、若し右にして事実とならんか自分が平和の為又両国の為尽力中の事は全く之が成効を見る能わざるに到る可しと。本官は閣下が今暫く急挙を抑制する為全力を用いられんことを希望す。本問題に関しては更に一電信(一八号)を発送中なり。
一月七日后四、二○彼得堡発 八日前四、二○東京着
第一八号 ベゾブラゾッフは一月七日、本官を来訪し本官電信第一七号所報と同様の趣を繰り返し且つ附言して曰く、日本が示威的行動を執らんとするに付きアレキシエフ大将は動員の允許を求め来たれり、事若し茲に至れば万事休すと言うべしと。ベ氏は又アレキシエフ大将よりの電報は総て極東会議宛にて氏の従弟にして友人なるアザブなる者之を接受する旨本官に語れり。
(欄外記入)「上奏、総理、海、陸、参、二老、一月八日発送済み」(二老とは二人の元老の意?)
[1/7二二]在露国栗野公使より小村外務大臣宛(電報) 日露商議不調の場合挑戦的行動避止方稟申の件 英国大使は本官に在日英公使より本国に送りたる電報を示したり。該電は貴大臣より英公使への御談話にして「露国の回答次第では強硬手段も不得已云々」との趣を報告せるものなり。露国は日本が挑戦的であることを喧伝し、戦争勃発せば日本の責任なりとする。戦勝の時過酷なる条件を課そうとして無闇なる発動的行動を控え居るとのことなり。彼我の商議不調に帰したる場合帝国は多分合衆国と協同して諸国と平和的に交渉し、尚露国の妨害ありとしても露国と直接交渉開始し事宜によりては最後通牒を発するも可なり。理は我に在り且つ一般の同情は我に存すべければなり。
[1/7二三]在清国内田公使より小村外務大臣宛(電報) 日露開戦の場合の好意的中立に付き慶親王と会談の件 
一月七日后七、三○北京発 后一一、四五東京着
小村外務大臣 在清内田全権公使
第八号 本官は一月七日慶親王に対し貴電第六号の趣を口頭にて通牒し且つ十分貴電の旨意を説明したるに親王は本官の説明を傾聴したる後答えて曰く、満州問題に関しては清国は理当に(リ マサニ 理屈としては当然)自ら露国と折衝すべきに、国力靡微(ビビ 小さいこと)之を行う能わず、日露開戦の場合に中立を守るの外、他に採るべきの途あるなきは自分の慚愧する所なりと。親王は清国は山海関、承徳、天津その他軍要上の各地点に適当の防御を施すに怠らざるべく、且つ石炭又は食糧品を毫も露国に供給することなかるべしと言われたり。貴電第六号の後段に就いては、親王は日本が露国と開戦するは極東平和の為又清国保全の為なるを以て苟も日本の利益となるべきことは何事にても之をなすは清国に在りて当然のことなるのみ、換言せば右の場合に於いて総て這般(シャハン 今回)の秘密的援助を日本に与うるは勿論の義なりと述べられたり。親王が充分に帝国政府の通牒を了解し且つ之に感動せられたるは、長時間に亘れる会晤(カイゴ 打ち解けて会うこと)中、絶えず本官の目に留まれる所なり。
(欄外記入)「上、各大臣、参、軍、外四、一月八日発送済み」(外四とは外に四人の元老の意?参は参謀本部の意?)

[コメント] 1904(M37)年当時の世界情勢を概観したいと思います。欧州に共産主義という名の怪物が徘徊していると書いて、その後の世界の歴史を予言した共産党宣言が出たのは 1848 年のことでありました。怪物は欧州だけではなく世界中を徘徊するようになりました。一般庶民の権利意識の高まりは、権力者の独善を悪と見なすようになりました。生活が苦しいのは、権力者が擁護しようとする社会構造が間違っていると考えるようになりました。欧米での精神文化と物質文明の 19 世紀における近代化も欧米諸国を世界の救世主にすることはありませんでした。却って後進地域を恣意的に支配する侵略者に仕立て上げました。欧米で権力者を倒して国を支配するようになった新勢力も前権力者と同じ道を進んで侵略の手を緩めることはありませんでした。 20 世紀当初の列国の政治情勢、社会情勢等を、 山川出版社 詳説世界史(再訂版) 昭和 57 年 3 月 5 日発行やインターネット等を利用して調べました。
[1.露国] 1894(M27) 年、ニコライ2世が即位しました。ロシアの資本主義の発達は著しく、都市では大工業が発展しました。マルクス主義運動がうまれ。 98(M31) 年、社会民主労働党が結成されましたが、政府はこの運動を禁圧し、その指導者は国外に逃亡しました。 1903(M36)年、ポルシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)とに分裂しましたが、多数派と言っても社会民主労働党内の多数派であって、国民全体の中での多数派ではありません。有産階級による立憲民主党などは反動派に押さえられて力を伸ばすことが出来ませんでした。反動派は国民の不満を極東アジアでの植民地獲得によって逸らそうとしました。ロシアは満州、朝鮮それから日本をも植民地にしようと狙っていたかもしれません。その後のロシアの対外政策と行動を見ればそれが単なる憶測に止まらないことが分かるでありましょう。

[2.英国]イギリスでは政党政治が続いていましたが、 19 世紀末には帝国主義の傾向が強くなりました。特にジョセフ=チェンバレンは熱心で南ア戦争(1899(M32)-1902(M35))を引き起こしました。イギリスは悪戦苦闘の末、勝利しました。日本とは、北清事変の後 1902(M35) 年に日英同盟を結びました。アフリカではフランスと植民地獲得競争をしましたが、 1904(M37) 年に協商が成立し数百年に渉る対立に終止符を打ちました。イギリスはトルコと組んでロシアの中近東アジアへの南下政策を阻止し、日本と組んで極東アジアへのそれを阻止しようとしました。それでもなお、イギリスはロシアと 1907(M40) 年に英露協商を締結します。これが千年、二千年対外国戦争を繰り返してきた民族のシタタカサでありましょう。英国は光栄ある孤立(glorious isolation)から外国との同盟へと政策を転換し、二十世紀に於ける世界大動乱中の各戦争を勝ち続け、世界の指導的国家の一つとして二十一世紀を迎えました。

[3.米国]19 世紀末に米国は経済・産業方面でめざましい発展を遂げ世界の首位を占めるようになりました。資本家による産業の独占も進みましたが、各種の労働組合組織が生まれ、 1886 年にアメリカ労働総同盟が結成されました。
反トラスト法(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E6%B3%95) によって、資本家の独占が経済・産業発展の障害となることを防ごうとしました。経済・産業の規模拡大は必然的に対外膨張圧力を高めフィリピン、キューバ、ハワイを勢力下に収めました。極東アジアでは欧米による世界の植民地化が仕上げの段階に差し掛かっており、米国は清国・日本・朝鮮解放の白馬の騎士を演じながら商業的均等維持を唱え、領土より利権獲得の機会を狙っていたように見えます。領土には養わなければならない、しかも黄禍論に見るように恐怖の対象と成りうる、多数のアジア人が犇めいていたからでありましょうか。

[4.独国]独国のこの時代の情勢は複雑ですが、独逸を統一したドイツ帝国(独:Deutsches Kaiserreich, 英:German Empire )とは1871年1月18日から 1918年11月9日まで存続したホーエンツォレルン朝の立憲君主国のことであります。
(参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD)
独国の社会主義運動はマルクス主義の影響を受けながら発展し、社会民主党が 1875 年誕生しましたが、ビスマルクの社会主義鎮圧法によって押さえられ、ビスマルクの失脚とともに復活し議会の第一党の地位を占めるに至りました。しかし、党内にベルンシュタイン(1850-1932)が出て修正主義を唱え、革命を排して社会改良を主張するようになりました。独逸帝国皇帝ヴィルヘルム2世はビスマルクを辞職に追い込み、親政を行って国力を大いに伸張させました。経済・産業・学問の発達はめざましく、経済力・産業力・軍事力・科学力で英国に拮抗するまでになり、世界各地で列国との軋轢を引き起こすようになりました。

[5.仏国] 1875 年、憲法が成立しフランスは第三共和国の時代でありました。勤勉な国民は普仏戦争(1870-71)敗戦の痛手に屈することなく働いて国力を回復し、海外に進出してイギリスに次ぐ植民地を作り上げました。パリは花の都と称されて、世界の文化・文明の中心となり 1900 年には万国博覧会とオリンピックが同時に開催されました。([Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF_(1900%E5%B9%B4)] によれば、その為オリンピックの運営は滅茶苦茶であったとの噂ですが。)
周りを英独の強国に挟まれた仏国では軍部の台頭や没落など相変わらず政情が安定せず、左右両派の対立は根深いものがありました。労働組合の運動が盛んになり 1901 年には労働組合員の数は 58 万 9 千人に達しましたが、ストライキが頻発し、 19 世紀は 90 年代に始まるストライキによってその幕を閉じ、 20 世紀も亦その最初の 10 年間がストライキによって開幕した、とブリタニカ国際大百科事典は伝えています。(英語圏は何かとフランスにケチを付けたがるように見えるのは私のひが目でしょうか。)

[6.清国]中国大陸では大清帝国が亡国の瀬戸際にありました。山川出版社 詳説世界史(再訂版)から、当時の中国に於ける列強の勢力圏について引用します。地理に弱いので思い違いがあるかも知れません。諸賢の御叱正をお待ちします。
仏国:雲南省、広西省、広東省、海南島等の中国南部
日本:福建省、台湾、朝鮮等の中国大陸東海岸の一部
英国:四川省、湖北省、江西省の一部、安徽省、江蘇省、浙江省等の揚子江両岸部
独国:山東省
露国:万里の長城より北部の内モンゴリアと満州等、露国国境沿い中国領
清国:南部の貴州省、湖南省、江西省の一部と北部の甘粛省、陜西省、山西省、河南省、直隷省の二箇所 (注:大清帝国は中国漢民族にとっては満州民族からなる支配者でありました。)
これを見ても大清帝国が最早国家の体を為していないのは明白であります。中国の各民族が自主的に外国勢力を排除しながら、真に近代化へと歩みを進めるに至ったのは日露戦争が日本の勝利に終わったのを見届けた後であったのです。圧倒的な軍事力を保有する欧米の植民地主義者に対抗して民族の自立を目指すには、明治維新に見られる日本人による一種の「狂気」(幕末の志士吉田松陰にその一端を見ることが出来ると考えています。061014 16:10−藍愛和)の爆発と、共産主義に於ける無産階級による武装闘争革命理論とが必要であったのかも知れません。

[7.韓国]明治維新(1868(M1))によって日本が急激に近代化して以来、朝鮮半島では日露米三国による熾烈な利権獲得競争が起こりました。この流れの一部は現在でも尚続いていますが、その間 1895(M28) 年の閔妃殺害事件、 1896(M29) 年の国王陛下の露館播遷、 1896(M29) 年の米国亡命徐載弼による独立協会設立、 1897(M30) 年の朝鮮から大韓帝国への国号改定、 1898(M31) 年の韓国政府による独立協会弾圧と協会幹部の逮捕及び亡命、 1904(M37) 年 2 月 23 日の日韓議定書締結による大蔵省主税局長目賀田種太郎氏の韓国政府財政顧問就任と日本外務省に勤める米国人 D.W.Stevens 氏の外交顧問就任等があり、植民地主義国日露英米の抗争と結託の下、日本の韓国支配は最早決定的段階に立ち至っていました。(韓国については、ブリタニカ国際大百科事典、インターネット等を参照しました。)

[8.日本]露国に対する日本の輿論は 「1903/11/15 週間「平民新聞」創刊 (幸徳秋水・堺利彦ら/唯一の反戦派新聞)」(http://www.c20.jp/1903/10taisy.html 参照)を除いて朝野を挙げて主戦論一色でした。当時の日本人の精神状態がどのようなものであったかを示す新聞記事を新聞集成明治編年史(M36-38) 財政経済学会蔵版 から紹介します。
[一・二○(1904(M37)年)、報知]
我が老躯を血祭りに 「国民の覚悟」 此通り
近く来たるべき日本と露西亜の戦い二十世紀の一大戦争なり。之に対して、見る所思う所を吐き来たれる投書山の如し、記者暫く其の二三を公にせん。
▲対州人は覚悟仕り候 一筆啓上、今回は大事件にて候。記者先生も定めし御心配と存じ候。当対州厳原(長崎県対馬市厳原町)人は最早何れも立派に覚悟を致し居り。拙老は本年七十二歳にて病臥中に候間、去る九日一族縁者を拙宅に招き、拙老枕頭に於いて左の如く相定め申し候。
一、日露戦争相開け候暁には、先ず拙老刺殺し、屍骸を土中に埋め候事。
二、婦女子小児等は博多表の親戚へ預け候事。
三、壮年の男子は悉く兵器を執りて、神国の大敵を討ち払い申す可く候事。
是拙老一家一類の覚悟のみに之無く、隣家の老夫人も戦争相始まり候えば自殺の覚悟致され居り候。我が対州人は十四五の少年と雖も男子は踏み止まりて血戦の覚悟仕り居り候。云々。

対州古老のこの文章を読んで、鎌倉時代末期の 1274 年、 1281 年二度に亘る元寇の役を思い出します。この戦役で対馬(つしま)・壱岐(いき)の住民は虐殺され、屍骸は日本人への見せしめのため船に釣り下げられた、という風に近代の日本人は機会ある毎に教えられて来ました。「生きて虜囚の辱めを受けず。」という考え方も亦日本人の頭にたたき込まれました。そして、第二次世界大戦の無条件降伏によって、一億国民皆生きて虜囚の「辱め」を受けました。しかし、我々現代の日本人は自分達の祖父母、父母等が生きて虜囚となったことを恥辱とする必要はありません。我々日本人は敗戦とその後の世界の変化から非常に多くの学習と経験を重ねました。この知識と経験を有効に使いましょう。そして、生き抜くこと、それこそが勇気ある名誉の行動と考えるべきでありましょう。我々日本民族は生きて、生きて、生き抜いて、千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで、生き抜くことが大切ではないでしょうか。

二十世紀の世界は血腥い戦争の絶え間が無く、世界中の人々が互いに殺し合いました。文化・文明が過去に対して比較にならない程進歩発展しながら、何故そうなったのでしょうか。何れの国の住民も自分の生活向上には熱心ですが、他国の住民の生活などは問題ではなかったのでしょう。そして、世界はあらゆる差別と偏見に満ちていました。誤った自民族至上主義が各民族の理性的思考・行動の障害となりました。或いは又優秀な武器を持った者はそれを使いたがるのかも知れません。それが二十世紀の世界の現実であったのでしょう。二十一世紀初頭の世界の現実は二十世紀のそれとは同様でないことを祈りましょう。二十一世紀の世界の総ての人がこの地球の狭いこと、壊れやすいこと、そして人間が凶暴な多数の道具・武器を所有していること、至る所で人口数の激増が起こっていること等を自覚して、政治・外交・社会・経済・産業・科学・技術・芸術・生活のあらゆる分野で自らの行動を自覚的に制御するよう努力する必要があると思います。現在の日本の少子化なども、世界のこの情況を無視して利己的行動にのみ走るのは決して理性的行動であるとは言えないでありましょう。謙虚であることが眞の勇気ではないでしょうか。我々は先ず自らが地味に、謙虚に生きることから始めましょう。
(記入:06/10/15 16:50 藍愛和 加筆修正:06/10/16 11:45 藍愛和)

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2007/03/27 21:00

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