日本の対外戦争と世界の情勢

アクセスカウンタ

zoom RSS 北清事変・その四

<<   作成日時 : 2006/04/11 11:03   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 2 / コメント 0

北清事変(1900(M33)/5-1900/9)がどのような形で終息したのか、「明治百年史叢書 小村外交史 外務省編 原書房」及びインターネット等を参照しながら、調べることにします。”小村外交史”には、第七章駐清公使時代第一節義和団の騒乱に「小村の外交上の閲歴及び手腕は、この事件を知らずして評価せんとするも不可能である。」と書かれています。ここでは、客観的な事実と思われるものに限定して引用したいと思います。小村寿太郎氏の駐清公使時代は 1901/01/06-1901/09/20 と思われますが、なお、正確なことが分かり次第修正するかも知れません。

小村寿太郎氏については次を参照して下さい。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E5%AF%BF%E5%A4%AA%E9%83%8E

”小村外交史”よりの引用
1900(M33)/06/19 露国政府は各国政府に兵員四千北清に出動との通牒。
1900(M33)/06/23 黒竜江屯在軍隊に動員令。
1900(M33)/07/17 ブラゴヴエスチエンスク、ハバロヴカ、浦塩港等に戒厳令。 
1900(M33)/07/21 西比利全管区の軍隊及びトルキスタン管区のセミレチエンスク所在軍隊に動員令。
1900(M33)/07/24 欧本国より極東に向け歩兵五ヶ師団、砲兵十五ヶ大隊、工兵及び鉄道隊各一ヶ大隊を派遣決定。 
1900(M33)/07/30 露国分遣隊は愛琿及びサヴエロフカに於ける清国兵を撃攘して占領。
1900(M33)/08/04 北清派遣陸海軍総指揮官アレキシエフ中将は営口を占領し、露国仮民政庁を設置し、在営口露国領事を民政官に補した。
1900(M33)/08/08 西比利に二ヶ軍団の新設。
1900(M33)/08/15 露兵約一千大孤山に上陸。露兵の北清に活動し得べき総員二十万に達すべく、内既に清国境上方面に屯するもの大約八万。
1900(M33)/08/15 北京、連合軍の手に落ちる。
1900(M33)/08/25 露国は列国政府に対し一片の通牒を発し、云々。(北清事変・その三: http://aiaiwa.at.webry.info/200603/article_2.html 参照)

引き続き、”小村外交史”より北清事変に関する最終議定書を引用します。
1901(M34)/09/07 最終議定書の調印。発表は1901(M34)/12/28

北清事変に関する最終議定書
獨逸国全権委員 ア・ムンム・フオン・シユワルツエンスタイン閣下
墺地利洪牙利国全権委員 男爵エム・チカン・フオン・ワールボルン閣下
白耳義国全権委員 ジユースタンス閣下
西班牙国全権委員 ベ・ジー・ド・コロガン閣下
亜米利加合衆国全権委員 ダブリユー・ダブリユー・ロツクヒル閣下
仏蘭西国全権委員 ポール・ボウ閣下
大不列顛国全権委員 サー・アーネスト・サトウ閣下
伊太利国全権委員 公爵サルヴアゴ・ラツジー閣下
日本国全権委員 小村寿太郎閣下
和蘭国全権委員 エフ・エム・クノーベル閣下
露西亜国全権委員 エム・ド・ギールス閣下
清国全権委員 総理外務部事務 和碩慶親王奕劻殿下 
       太子太伝文華殿大学士商務大臣北洋大臣
       直隷総督部堂一等粛毅伯   李鴻章閣下 
は清国が列国の満足する如く千九百年十二月二十二日の連名公書に列挙せられ且つ清国皇帝陛下に於いて千九百年十二月二十七日の勅諭(附属書第一号)を以て其の全部を納れられたる所の各条件に遵応したることを確認する為茲に会合するものなり。
 第一条 甲
去る六月九日の上諭(附属書第二号)を以て醇親王載灃清国皇帝陛下の大使に任ぜられ此の資格を以て故独逸国公使男爵「フオン・ケツテレル」閣下虐殺の件に関し清国皇帝及び清国政府惋惜の意を独逸国皇帝陛下に致すべきことを命ぜられたり。醇親王はこの使命を果たさむが為に去る七月十二日北京を発程せられたり。
 第一条 乙
清国政府は故男爵「フオン・ケツテレル」閣下虐殺の地点に於いて死者の官位に適合し且つラテン語、獨国語、清国語を以て右殺害に関し清国皇帝陛下の惋惜を表するの銘誌を有する紀念碑を建設すべきことを声明したり。
清国全権委員閣下は去る七月二十二日の書簡(附属書第三号)を以て道路全幅の牌坊を該地点に建設すること及び去る六月二十五日より其の工事に着手したることを独逸国全権委員閣下に通知したり。
 第二条 甲
千九百一年二月十三日及び二十一日の各上諭(附属書第四号第五号第六号)を以て外国政府及び外国臣民に対する非企及び罪悪の首犯者に左の刑罰を科したり。
端郡応載漪及び輔国公載瀾は斬監候に処せられたり。而してもし皇帝に於いて之に恩典を加え死を免かれしむべしとの叡慮あるときは之を新彊に遠謫して永久禁錮に処し何等減刑の恩典を加うること無かるべき旨約定せられたり。
荘親王載、都察院左都御史英年及び刑部尚書趙舒翹は自尽の刑に処せられたり。
山西巡撫◇賢、礼部尚書啓秀及び前刑部左侍郎徐承Uは死刑に処せられたり。(◇は毎が左に、流の旁が右にある古字)
吏部尚書協弁大学士剛毅大学士徐桐及び前四川総督李秉衡は官位追奪を宣告せられたり。
千九百一年二月十三日の上諭(附属書第七号)を以て昨年に於ける最も憎むべき国際公法違犯の行為に反対し之が為に生命を奪われたる兵部尚書徐用儀戸部尚書立山、吏部左侍郎許景澄、内閣学士聯元及び太常寺卿袁昶の官位を復せられたり。
荘親王は千九百一年二月二十一日英年及び趙舒翹は二十四日に自裁し◇賢は二十二日啓秀及び徐承Uは二十六日に死刑を執行せられたり。
甘粛提督董福祥は後日を待って其の刑罰を確定すべきものとして先ず二月十三日の上諭を以て其の官職を奪われたり。
千九百一年四月二十九日及び八月十九日の各上諭を以て昨年夏季に於ける非企及び罪悪の有罪者と認められたる地方官吏に各自相当の刑罰を科せられたり。
 第二条 乙
千九百一年八月十九日の上諭(附属書第八号)を以て外国人が虐殺せられ若しくは虐待せられたる各市府に於いて五箇年間科挙の停止を命ぜられたり。
 第三条
故日本国公使館書記生杉山氏の虐殺に対し名誉ある補償を為すが為に清国皇帝陛下は千九百一年六月十八日の上諭(附属書第九番)を以て戸部侍朗那桐を特使に任じ杉山氏虐殺の件に対する清国皇帝陛下及び其の政府の惋惜の意を日本国皇帝陛下に致すべきことを特に命ぜられたり。
 第四条
清国政府は外国若しくは各国共同墓地にして汚瀆せられ又は墓の所在墳基の破壊せられたるものには各贖罪の紀年牌を建設することを約したり。依って関係公使館は右建設に関し指示を与うべく清国は其の一切の費用を支払うべきことに列国代表者との協議商定を経たり。而して此の費用は北京及び其の近傍の墓地に対しては各一万両、地方の墓地に対しては各五千両と予算し該金額は支出を了せらたり。茲に其の墓地表を添付す(附属書第十号)

(以下は、次回に。附属書は略す。)

[コメント]今まで、候文や英文をそのまま引用することはあっても、漢文の引用をしませんでした。それは漢文中にある難しい漢字のタイプに辟易したからであります。今回そのような漢字を含む議定書をそのまま引用したのには、訳があります。
初めてこの議定書に目を通した時、争乱に敗れた清国の無惨さに暗澹たる思いをしたからであります。北清事変は確かに暴徒とそれを見逃した清国政府に責任があるのは当然ですが、一般民衆にとっては、自国の楽園に土足で踏み込んで、我が儘勝手をする外国人に対して憤激逆上以外の如何なる感情・態度を持ち得たでありましょうか。
虐殺責任者の処刑の文章を引き写しながら、私は 1945年8月15日以降の日本人 A, B, C 級戦犯人の処刑を思い出さずには居られませんでした。1901年に日本人等が清国人に対して行った処刑と同じ事を、 1945年以降に中国人等が日本人に対して行ったのです。
中国は北清事変の後も 50年以上の間泥沼の混乱の中に 10億の国民は筆舌に尽くせない苦しみを経験しました。日本は先の大戦の 5年後の 1950年に始まった朝鮮戦争による金偏景気から一気に世界第二の経済大国に迄上り詰め、平和で豊かな生活を満喫しました。

中国と日本のこの違いは何が原因で生じたのでしょうか。素人なりに考えました。
1901年以降の清国の周辺には争乱終結後もなお、植民地主義諸国が虎視眈々と更なる利権獲得を狙っていました。1945年以降の日本の周辺には、米国・西欧の民主主義陣営とソ連・中国の共産主義陣営が冷戦ならぬ砲弾飛び交う国共中国内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争を戦っていました。中国は植民地主義戦争や、民主主義対共産主義闘争の主戦場であり続けました。一方、日本は独逸同様、民主主義陣営のショー・ウィンドーとなり、与えられた平和に安住することが出来ました。

20世紀の世界列国の世界戦略と世界歴史の流れをつぶさに研究せずして、21世紀に生き残ることは出来ないでしょう。 歴史から有益な教訓を引き出すことの出来ない国は、歴史から退場するの運命しか与えられないでありましょう。
(記入:06/04/11 11:00 藍愛和)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
北清事変・その五
北清事変(1900(M33)/5-1900/9)に関する最終議定書について、引き続き「明治百年史叢書 小村外交史 外務省編 原書房」及びインターネット等を参照しながら、紹介することにします。その四では、争乱の清国側責任者達への処罰について書きました。今回は、事変の再発防止という名目で、連合国側が如何に中国利権を拡大したかを検証することにします。植民地主義的で軍国主義的な外交が世界的な規模で機能したのはこれが最後の事件であったと思います。世界各国を巻き込んだ、戦争行為と外交交渉が複雑に交錯す... ...続きを見る
日本の対外戦争と世界の情勢
2006/04/23 16:38
仙石由人代表代行は日本一の国士:尖閣問題その6:北方四島問題その2
北方四島問題については,「菅直人内閣が日本を救う:尖閣問題その6:北方四島問題」で, 「アメリカが第二次世界大戦以降,日本に対して,いかなる平和処理又は戦争請求権処理を行ったか,更には,アメリカは,20世紀・21世紀における全ての,自国の対外戦争で, いかなる平和処理又は戦争請求権処理を行ったか」を調べることになっていました。 ...続きを見る
日本の対外戦争と世界の情勢
2011/03/08 21:52

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
北清事変・その四 日本の対外戦争と世界の情勢/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる