日本の対外戦争と世界の情勢

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zoom RSS 北清事変・その三

<<   作成日時 : 2006/03/24 22:01   >>

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北清事変(1900(M33)/5-1900/9)前後の日本国内外の情勢について、「新聞集成明治編年史第十一巻自明治三十三年至同三十五年北清事変期」、「明治百年史叢書 小村外交史 外務省編 原書房」及びインターネット等を参照しながら、調べることにします。北清事変は当時のロシアが極東利権獲得への意欲を一段と高めるに至った契機の一つであると思います。ロシアの南下を阻止し、自国の清国権益を拡大しようとする世界各国の思惑と、清国の混乱した社会情勢と、新しく世界の列国に肩を並べようと懸命になっていた新興国日本の動静とが相まって極東に新たな戦雲を呼ぶことになりました。
新聞記事の [五・十、・・]等の日付は 1900(M33)年5月10日等を示します。

[五・十、時事]南阿に於ける英軍の死傷一万三千人 英国陸軍省の公にしたる処によれば、去る四月七日に至る英軍損害の総計は一万三千三百六十五人(戦・病・傷死者、捕虜、病・傷送還者等)に上る由にて、云々。尚当時病院に於いて治療中なりし病者負傷者は此の外なりと言えり。
第二次南アフリカ戦争(1899/10/11-1902/5/31)については、次を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%88%A6%E4%BA%89#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E3.83.9C.E3.83.BC.E3.82.A2.E6.88.A6.E4.BA.89

[五・十、時事]米国への移住民一週一万人の盛況 年々他国より米国に移住する人民の数は夥しき者なるが、本年は特に多数にして、同国移民局の調査に拠れば一週間一万人の割合を以て移住し来たりつつあり、本年は一千八百八十年代の如く五十万乃至八十万人に達すべき見込みなりと言う。云々。尚移民の大多数は南部欧州より来るものにして、云々、彼等は始より永住の目的にて来住するに非ず、云々。
[五・十一、日本]米国の植民地制度 米国政府が今回ポートリコに付与したる施政制度は明らかに米国政府の植民地に対する施政の方針を示すものなり。ポートリコの上院議員はウヲシントン政府の指命する所にして、植民地総督も亦政府の任命する所なり。之植民地人民に名義上自治を許すも、その実中央政府の意志に依りて支配せんとするものにして、云々。

[五・二十、国民]匪徒義和団北京に乱入す 列国公使館危険に陥る 北京を距たる七十里淶水と称する地にて、義和団の匪徒加特力教信徒十三人を殺し全村落を荒し、尚同国の匪徒は北京にも多数入り込みたり、市中にも加特力教信徒甚だ多し(十七日北京発電) ☆[五・二二国民]義和団匪の北京侵入○北京に侵入したる義和団匪徒の数は非常に多く、状態頗る危険なるを以て、米国は砲艦を太沽に回航せしめたり。又諸外国は公使館保護の必要有りと認め居るも尚連合運動をなさざるべし。(十八日北京発電)
[五・二二、時事]製艦材料内地で出来申さず 国防上の不安 設備には七百万円所要
[六・九、国民]団匪事件と帝国の対清方針 (前略)我国はこの際素より専断獨行すべき地位に立ち至らずと雖も、清国に対して最も厚き利害の関係を有する強国の一として、決して他国の後へに落つべきに非ず、当局者も先に軍艦笠置を派遣し更に一隻の軍艦を派遣する由なれば、事態の容易ならざるを認め、如何なる局面を生ずるも之に応ずるを得るの準備を為しつつあるならん、我が国は清国に近接し他国に比して便宜の地位に立ち居れば、いよいよ必要の場合には単に一、二隻の軍艦に止まらず、艦隊を派し陸兵を送りて、列国と共同するも亦辞する所にあらざるべし。 
[六・九、国民]義和団討伐 列国の方針決す [六・九、国民]義和団討伐の上諭 列国は共同動作 義和団を解散せしむるため、清廷は軍機大臣を派遣せり。右にて尚成功せざる時は董福祥、馬玉昆、宋慶を派遣して之に当たらしむる旨、上諭あり。列国は引き続いて共同運動を執る筈にて、云々。[六・十、国民]義和団事件 軍艦須磨・陽炎増派 [六・十二、国民]匪徒益々猖獗 列国遂に清国を無政府国と認む。

[六・一四、中外商業]本月五日北京発の電報なりとて、左の一報をもたらすものあり。西太后陛下は昨夜御殿内の秘密会議室に重立ちたる権臣を召され、団匪の処分に関して内議を凝らされたるが、長時間の討議の末、結局義和団は実際朝廷に忠誠なるものにして、もし之に相当の武器を携えしめば、外国の侵略に対し有力なる軍隊の援助となすを得べしとの理由の下に、団匪をあくまで殲滅せざることに決定せり。
右の議に対しては栄禄及び李親王(?)の二名のみ反対せしが、遂に慶親王、端郡王(皇太子の御生父)、剛毅、慶寿恒、外一名の為め圧服せられたり、王文詔は黙して可否を言わず、西太后は自ら決する所あるものの如し。目下団匪至る所に蔓延し、日日之に投合するもの百を以て算すべし、満州出身の人は悉く団員にして、公然義和団の徽章たる紅帯を衒うて得々たり。形勢は刻々に切迫しつつあり、西太后にしてもし栄禄の説を容れずんば、国の大乱を醸すを免れざるべし。云々。
[六・一五、中外商業]軍艦吉野太沽に向かう 山本権兵衛海軍大臣は軍艦吉野を北清警備艦隊の旗艦と定め、出羽海軍少将が司令官として出発すべき旨、昨日命令を下したる由、云々。
[六・一五、中外商業]列国の態度 (十三日天津発)列国の態度は在北京使臣会議の範囲を脱せるが如し、英露両国先ず争うて大いに為す所あらんとし仏伊両国亦露国を助けて窃かに為さんとする形勢あり、只今まで依然として態度の変ぜざるものは独り米国のみ、本邦の態度は内外人皆疑い、寧ろ米国の態度と同一に認めり、獨澳両国の態度は未だ分明ならず。

[六・一五、国民]杉山外務書記生団匪に殺さる 十三日北京発電に曰く、我が公使館書記生杉山彬氏危険を冒し、単身列国分遣隊を出迎えんとて馬家堡停車場に向かう途中永定門外にて董福祥部下の馬隊兵十余名のため刀を以て斬殺されたり、その遺骸は十二日検視の上総理衙門より受取たりと。云々。
[六・一七、国民]財界不安◇株式売買中止説 清国事変と我が経済界の諸相 綿花・綿糸の先物価格下落 神戸に停滞する綿糸は一万五千梱 株式市場昨今の下落は実に甚だし 棒下げに下げきし期米が昨今に至りて再び上向き 禍福は綯(あざな)ふ縄
[六・一七、国民]清国政府義和団を使嗾
[六・一九、国民]砲火遂に太沽の一角に揚がる ○十八日芝罘発にてその筋に達したる公報左の如し。太沽砲台と米国を除く他の列国軍艦との間に戦闘開始せられたり、豊橋艦は直ちに太沽に向かうべし。砲撃は昨夜八時を以て停止せり。
[六・一九、中外商業](六月十八日上海発)只今接手したる清国人よりの電報に依れば、太沽砲塞は外国兵に占領せられたり。
[六・二十、中外商業]太沽陥落の快報に株式暴騰
[七・二八、中外商業](露国の提議)朝鮮問題に関して露国何事か提議 急遽重大会議を開く ○山県首相が数次青木外相と会合し、又首相官邸に西郷内相、松方蔵相、桂陸相、山本海相及び青木外相等鳩首密議し、云々。
[七・二八、国民]北清事変日記 (前略)六月三十日 在天津各国領事会議にて、もし各国公使に危害を加うるものあらば、清国宗廟を毀壊すべしと、各本国へ建議せしとの報至る。(後略)

[小村外交史]より:
八・十五 連合軍北京公使館区域に到達 清帝及び西太后は既に遠く西安に蒙塵していた。
八・二五 露国は列国政府に対し一片の通牒を発し、(一)列国間に共同一致を維持(二)清国従来の政態維持(三)清国分割の傾向有る一切の措置排斥(四)列国の協力により清国内の安寧秩序を保持しうる政党政府を北京に復興、との主義を述べ、かつ露国は他の列国に妨げられざる限り、その軍隊を撤退せしむるに怠らざるべきこと等を宣明した。

[九・一三、国民]韓国永久中立 新任駐日公使が皇帝の命を受く。(以下略)

[一二・五、中外商業]伯刺爾が移民歓迎 大量五万人を求め・・・日本からも六百家族 伯刺爾国サンパウロ州政府は、来年度に於いて五万人の移民を誘入せんと企図せる、リオ・デ・ヂヤネーロ商人サン・ヅ・デエルツ氏は、其の需要の幾分に応ずる為、日本移民六百家族を誘入せんことを同州政府と契約し、右用務の為本年末該地出発渡来すべしと言う、云々。
[一二・六、読売]アルゼンチンに邦人植民計画 同国政府許可せん 亜爾然丁国に於ける日本人植民の計画 ○亜国新聞の報によれば、同国フヲルモザ州内に於ける広濶なる土地に、日本人移植の計画を政府へ願い出たるものありて、同国農商務省は調査の末有望と認めたれば多分許可せらるべしと。(以下略)

[一二・六、国民]清国局面 講和の見据えつく 在北京関係八ヶ国公使が議定したる講和予備条約中に、清国全権に於いて承諾し難かるべき箇条あることは、先日来の紙上に記せる所ありしが、右に就き我が政府よりは某々国に移牒する所ありたり、云々。

[コメント]南ア戦争における英軍の損害について、もう少し詳しく、新聞集成明治編年史第十一巻自明治三十三年至同三十五年北清事変期の[五・十、時事]から引用します。
戦死将校三百十一名、兵卒千九百六十名、負傷の為死したるもの将校四十八名、兵卒四百六十五名、行方不明及び捕虜となりたるもの将校百六十三名、兵卒三千七百二十二名、病の為死したるもの将校四十七名、兵卒千四百八十五名、過失により死したるもの将校三名、兵卒三十四名、病の為送還されたるもの将校二百八十八名、兵卒四千九百三十四名で、合計一万三千四百六十名です。
新聞報道の一万三千三百六十五名より九十五名多いのですが、どうしてこういうことが起こったのか三つの可能性が考えられます。(1)英国陸軍省等のミス(2)日本側新聞関係者のミス(3)私の計算ミス、の三つの場合です。 (3) については弁解の余地はありません。深謝するのみです。 (1),(2) については、公的な組織・機関は戦争での死者、病人、負傷者に関しては最大限の敬意を以て報道しなければならないのに、このミスがあるのならば残念なことです。戦死者・負傷者・病人等の実数が一名でも間違っているということがあってはならないでしょう。だからと言って、それらの数値を概数で表すのは戦争による戦死者・負傷者・病人に対する侮辱ではないかと思います。そう言う意味では、英国陸軍省や日本の新聞社が一の位まできちんと数値を報道しようとした姿勢に対しては充分な信頼を寄せることが出来ると感じました。

韓国皇帝については、大韓帝国: Wikipedia を参照して下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E5%B8%9D%E5%9B%BD

日本は狭い国土に溢れ出さんばかりの過密な人口を抱え、明治維新後政府は国民に対して絶えず海外移民を奨励します。色々紆余曲折があったでありましょうけれど、日系アメリカ人は約六十万人でアジア系では最も多いそうです。次を参照して下さい。
日系アメリカより 岡部一明(『おーJAPAN』連載、1981年10月―83年3月)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/kiji/nikkeiam.html

北清事変の事後処置について、ロシアが先ず諸列国に自国の方針を宣明しました。清国自身が自国をいかに復興するつもりなのかを問題にするよりも、諸列国の思惑を勘案し、ロシアは諸列国の共同維持と清国従来の政態維持との主張を掲げながら自らの極東権益増大を画策しました。このやり方は東学党の乱後の日本が東洋平和と朝鮮独立との方針を諸列国に示しながら、朝鮮権益増大を画策したのに似ています。そしてそれは又従来植民地主義国家の取ってきた態度であります。例えば、昭和57年3月5日発行山川出版社「詳説世界史(再訂版)」には、
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米国は中国に対しても関心をたかめていたが、中国の要地が列強の勢力範囲となっていく情勢をみて、 1899年国務長官ジョン=ヘイが、中国の門戸開放・機会均等・領土保全の3原則を列強に提議した。これによって、中国分割の傾向はゆるめられ、以後アメリカは、経済的に中国に進出するようになった。
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と書かれています。そして、その横に「義和団事変を鎮圧した連合国兵士」とキャプションの付けられた写真が載せられています。左から英米露印獨仏澳伊日の順に九名の兵士が写っています。詳細は実物を御覧戴くのが一番良いと思いますが、アメリカ兵は武器らしいものは持たず直立不動の姿勢で見るからにスマートです。日本兵は完全装備の歩兵らしいのですが、写真では少年兵にしか見えません。これではアメリカは中国にとって白馬の騎士を演じているとしか見えません。歴史を調べる者に取って最も大切な事は生の資料を使うこと、偏らない透徹した歴史観、世界観を持つことと、常に鋭い批評眼を持つことです。一庶民ではありますが、このような覚悟をもってこの blog を作成して行くつもりです。もし、私にこの覚悟に反する態度がありましたら、御叱正下さい。謙虚に耳を傾け、真剣に御回答申し上げたいと思います。
(記入:06/03/24 20:00 藍愛和)

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