日本の対外戦争と世界の情勢

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zoom RSS 北清事変・その二

<<   作成日時 : 2006/03/05 11:07   >>

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北清事変(1900(M33)/5-1900/9)前後の日本国内の情勢について調べました。参照したのは、朝日新聞社編「史料 明治百年」とブリタニカ国際大百科事典及びインターネット等です。一般庶民の権利意識の目覚めとそれに対する既存権力者達の対応を中心として説明したいと思います。庶民層と権力層とがどう関係し、どうバランスを取るかがこの時代の世界政治の主要な課題であり、今もなお進行中の課題であると考えるからであります。もう一つ精神文化と物質文明の関わり合いという立場からも考察を加えて行きたいと思います。この方針は今後とも私の blog 書き込みにおいて維持して行きたいと思います。各項目の最初にある日付は「史料 明治百年」に従いました。

1897(M30)/1/10 自由党臨時大会、再び板垣退助を同党総理に推薦。板垣退助(1837(天保8)/4/17土佐-1919/7/11東京)氏は自由民権運動の指導者。伯爵。明治元勲の一人。1874年「民選議院設立建白書」を提出し、藩閥政治を攻撃、自由民権論を主張した。 1881年自由党を創設。 1882年岐阜に遊説の際、刺され、「板垣死すとも自由は死なず」と絶叫したと伝えられる。
なお、明治元勲とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「元勲」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8B%B2%E5%84%AA%E9%81%87
によれば、以下の通り。(# 印は太政大臣、 * 印は首相経験者)
[公家出身]#三条実美 岩倉具視 *西園寺公望 の3氏
[薩摩出身]大久保利通 西郷隆盛 寺島宗則 *黒田清隆 西郷従道 *松方正義 大山巌 川村純義 の8氏
[長州出身]木戸孝允 *伊藤博文 井上馨 *山県有朋 山田顕義 の5氏
[土佐出身] 板垣退助 後藤象二郎 福岡孝弟 佐々木高行 の4氏
[肥前出身] *大隈重信 江藤新平 大木喬任 副島種臣 の4氏
[幕府出身] 勝安芳(海舟)氏  [紀州出身](海援隊出身)陸奥宗光氏

1897/1/- 労働組合期成同盟会結成
1897/2/5 農商務省所管製鉄所を福岡県遠賀郡八幡村に設置(6月1日開業)
1897/3/2 足尾銅山鉱毒地の被害民 800余人が上京し請願を開始。足尾銅山は栃木県西部、足尾町にある銅鉱山。慶長15(1610)年に発見、翌年足尾銅山と称して江戸幕府直轄銅山となった。銅山は寛文−貞享年間(1661-88)の最盛期に年産 30万貫−40万貫を産し、銅輸出国日本を支える大銅山となった。その後幕末、明治初年と衰えたが、 1877年古河鉱業の経営となり、新技術の導入や新鉱脈の発見で日本有数の大銅山に復活した。鉱石処理に関連し、鉱毒、煙害は周辺の山地だけではなく渡良瀬川下流農業に大きな害を及ぼした。
田中正造氏らの運動があり、最終的には 1974/5/10 住民と会社が補償調停書に調印するという超長期の公害問題となった。
1897/6/10 第2回貴族院多額納税者議員選挙。貴族院は旧大日本帝国憲法によって設置され、衆議院と並んで帝国議会を構成した。貴族院令の定めるところにより皇族、華族および勅任された議員をもって組織されるものとされた。華族のうち公侯爵は終身議員、伯子男爵の場合は同爵位者の互選によった。互選者の任期は7年であった。勅任議員には、多額納税者および帝国学士院会員でそれぞれ互選により選出された者につき勅任された者(任期7年)、ならびに勅選議員(終身)とがあった。貴族院と衆議院は対等であった。貴族院令の改正に衆議院は関与する余地がなかった
1897/9/- 米価高騰し長野・福島・山形・新潟・富山の各県に米騒動起こる。江戸時代中期以降米一揆はしばしば起こっており、明治維新後も 1890年と 97年の2度、富山県を中心に北陸地方で同様の米騒動がみられた。もっとも大規模で、有名なのは 1918(T7)年の米騒動である。
1897/10/13 文部省、教員の政談を厳禁。

1898(M31)/3/15 第5回衆議院議員総選挙(臨時)自由党105、進歩党103、国民協会29、山下倶楽部26、無所属小会派37。衆議院議員選挙は明治22年法律第3号 衆議院議員選挙法及附録によれば、選挙人資格は
第一 日本臣民ノ男子ニシテ年齢滿二十五歳以上ノ者
第二 選舉人名簿調製ノ期日ヨリ前滿一年以上其ノ府縣内ニ於テ本籍ヲ定メ住居シ仍引續キ住居スル者
第三 選舉人名簿調製ノ期日ヨリ前滿一年以上其ノ府縣内ニ於テ直接國税十五圓以上ヲ納メ仍引續キ納ムル者
但シ所得税ニ附テハ人名簿調製ノ期日ヨリ前滿三年以上之ヲ納メ仍引續キ納ムル者ニ限ル
被選人資格は
第八條 被選人タルコトヲ得ル者ハ日本臣民ノ男子滿三十歳以上ニシテ選舉人名簿調製ノ期日ヨリ前滿一年以上其ノ選舉府縣内ニ於テ直接國税十五圓以上ヲ納メ仍引續キ納ムル者タルヘシ
但シ所得税ニ附テハ人名簿調製ノ期日ヨリ前滿三年以上之ヲ納メ仍引續キ納ムル者ニ限ル
第九條 宮内官裁判官會計檢査官收税官及警察官ハ被選人タルコトヲ得ス
前項ノ外ノ官吏ハ其ノ職務ニ妨ケサル限ハ議員ト相兼ヌルコトヲ得
第十條 府縣及郡ノ官吏ハ其ノ管轄區域内ニ於テ被選人タルコトヲ得ス
第十一條 選舉ノ管理ニ關係スル市町村ノ吏員ハ其ノ選舉區ニ於テ被選人タルコトヲ得ス
第十二條 神官及諸宗ノ僧侶又ハ教師ハ被選人タルコトヲ得ス
第十三條 府縣會ノ議員ニシテ衆議院ノ職員ニ選舉セラレ當選ヲ承諾シタルトキハ其ノ前職ヲ辭スヘキモノトス
となっています。
1898/6/10 衆議院、地租増徴案を圧倒的多数で否決、解散。
1898/6/30 最初の政党内閣。大隈重信内閣(いわゆる隈板内閣)成立。大隈重信(天保9(1838)/2/16佐賀−1922/1/10東京)氏は明治・大正期の政治家で伯爵。明治維新で活躍し、維新政府に徴士として出仕し、 81(M14)年大蔵卿となった。明治十四年の政変(開拓使官有物払い下げ事件等)で世論誘導と疑われて罷免された。国会開設の勅諭発布に応じて 82年立憲改進党を創設、総理につき、以後民党政治家の道を進むと共に東京専門学校(現早稲田大学)を開設した。1889(M21)年、外相時代外国人判事登用案に反対する国家主義組織玄洋社の来島恒喜に爆弾を投げられ右脚を失った。1914年に二度目の首相に就任した。
1898/10/17 紡績業不振で岡山・広島県 12紡績会社、夜業休止決議(全国に波及)
1898/12/15 東京・京都・大阪・横浜4市のの実業家が、地租増徴期成同盟会組織(会長渋沢栄一)。
1898/12/20 衆議院、地租増徴案を可決(2.5% を 3.3% に引き上げ)、 27日貴族院可決。
 
1899(M32)/1/1-31 紡績、第2次操業短縮。
1899/9/20 九州鉄道運転士同盟罷業、列車運転休止(23日解決)。
1899/9/27 足尾銅山鉱毒被害農民 7000余人上京、政府に陳情。
1899/10/2 木下尚江・安部磯雄・河野広中・幸徳秋水・片山潜ら、東京で普通選挙期成同盟会を結成。
1899/11/9 憲政党首脳、首相山県有朋を訪(おとな)い提携を要請。山県有朋(1838(天保9)/4/22萩-1922/2/1東京)氏は政治家、軍人で公爵。主な事跡に軍制確立、徴兵令の制定、士族・農民反乱の鎮圧、軍人勅諭の発布、教育勅語の発布、軍部大臣現役武官制の公布、文官任用令の改正等があり、軍部、官僚の指導権確立に努めた。明治元勲の一人である。

1900(M33)/1/21 東京に全国仏教徒大会開催、政府提出の宗教法案絶対反対の示威運動。(宗教法案について、 宗教法 案(明治三十二年・特別委員修正案):http://www.shinshuren.or.jp/law/rl_1900.02.17_m33.html によれば、神道(しんとう)所謂神社信仰等は宗教に含まれていません。現在の宗教法人法と較べて下さい。新宗連HP:http://www.shinshuren.or.jp/ のトップページ中、左端にある「宗教関係法令集」をクリックし「 HTML 4.0版 TEXT版 宗教法人法(2001年1月6日現在)」参照)
1900/2/13 足尾鉱毒被害民 2000人、請願上京中、館林で解散命ぜられ警官隊と衝突。
1900/2/17 貴族院、宗教法案否決。
1900/3/9 集会及政社法廃止。治安警察法公布。

1900/4/9 枢密院諮詢事項の範囲を文官任用・分限・懲戒に関する勅令にも拡張。枢密院は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E5%AF%86%E9%99%A2 によれば、元勲及び練達の人からなる枢密顧問官と、閣僚によって構成された。大日本帝国憲法56条では、「枢密院官制ノ定ムル所ニ依(よ)リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と規定された。枢密院議長経験者を列挙する。 伊藤博文 大木喬任 山縣有朋 黒田清隆 西園寺公望 清浦奎吾 濱尾新 穂積陳重 倉富勇三郎 一木喜徳郎 平沼騏一郎 近衛文麿 原嘉道 鈴木貫太郎 清水澄の15氏。枢密院の存続期間は1888(M21)/4/30-1946(S21)/9/26.
1900/4/24 東京株式市場大暴落。1900/5/1-31 紡績、第3次操業短縮。
1900/5/19 軍部大臣現役武官制の確立。

[コメント]この書き込みでは、北清事変直前の日本の情勢を記述して来ました。権利意識に目覚めた民衆の旺盛な活動が随所に見られました。公害問題に関しての大衆行動、普通選挙実現に向かって盛り上がる国民の意識、劣悪な労働条件改善等についての社会運動の萌芽、絶え間なく続く海外からの民主主義・社会主義・共産主義等の情報流入。日本社会の様相は近代化に向かって急激に変化しました。
近代産業の発達と経済の広域化・国際化は深刻な経済的問題即ち経済恐慌をも惹起しました。そして、明治・大正・昭和の、敗戦前の日本にとって宿命とでも言うべき資源のない狭小な国土と過剰な人口とにのしかかる北日本の大飢饉やら、戦争・社会不安やらに起因する食糧不足が頻発しました。
一方、明治維新の目標であった王政復古の完成を如何にして実現するかは、当時の日本社会の指導者にとっては緊急の最高最大課題でありました。河原一敏氏のhttp://list.room.ne.jp/~lawtext/1867OuseiFukko.html[王政復古諭告(抄)(王政復古の大號令)
1867(慶應3)年12月9日 宮堂上に諭告12月14日 列藩に諭告12月16日 諸社寺・農商に諭告]によりますと、
「諸事 神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之別無ク、至當之公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉勵舊來驕惰之汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國之誠ヲ以テ一ニ奉公致サルベク候事。」(漢文調を読み下し文に修整)
とあります。凡そ二千六百年前の紀元元年、神武の御代を手本にしようというのですから、実に気宇壮大であります。そうは言っても現実には、記録の残る大化改新(大化元年(西暦645年))と明治維新(明治元年(西暦1868年))とを重ね合わせて、律令政治の昔を取り戻そうと企図したのでしょう。例えば、西暦 702年に創始された参議という朝廷の役職を 1869年(明治2年)に復活させ、明治の元勲は陸奥宗光氏を除いて皆参議に任ぜられています。なお、参議制度は内閣制度制定(1885(M18)年)とともに廃止されました。

明治維新後の宗教政策においては、「神道は宗教でない」と宗教法で規定しました。川瀬貴也氏のHP: http://homepage1.nifty.com/tkawase/ にある、 http://homepage1.nifty.com/tkawase/osigoto/sotsuron/chap5.htm 、或いは真中行造氏のHP:
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/index.html にある、靖国神社信仰の背景: http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/yasukuni_sinkouhaikei1.html を参照して下さい。

神道所謂神社信仰は宗教なのか、身近に居る普通の主婦に訊ねた所、彼女は「お宮参りはお天道さんを拝むのと同じようなもので、仏教やキリスト教のような宗教とは違うと思います。」と答えました。即ち神社信仰は日本人全体に浸透している民間の風習みたいなもので、庶民のものだと考えているのでしょう。私はどうしても「割り切れない」ように感じられたので、無い知恵を絞って色々考えました。

明治維新において、神道信仰は、明治憲法で「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされた天皇陛下が統治される、大日本帝国によって直接管理運営されるようになりました。もう庶民の習俗信仰ではなくなったのではないでしょうか。この時点で神道信仰は宗教となったのではないでしょうか。それでも尚明治政府による宗教法では神道は宗教でないと規定されました。このような矛盾する宗教・非宗教の二面性は「いいわけ」の材料としては便利でありますが、この二面性は必ず信者である国民と神職者達との精神に邪悪な影響を与え、国民全体に多大の災厄をもたらすでありましょう。日本人全体が毅然として自らの信仰に従うという崇高な信仰心を見失い、周囲の風潮に盲従し行動するという催眠状態で、大日本帝国は領土拡張的軍国主義帝国へと雪崩を打って突進したのではないか、と考えました。大日本帝国の要路にあった人達程その傾向は顕著であったように思えます。
明治時代の神社信仰を宗教でないと規定した結果、神社信仰を諸外国に広めるには、台湾や朝鮮に対して行った様に外国を自国の領土にするより他なかったと思います。大日本帝国の絶え間ない領土拡張行動を後押しした精神的要因は神社信仰の矛盾した二面性であったかも知れません。一庶民の独断と偏見ではありますが・・・。

「この時点で神道信仰は宗教となったのではないでしょうか。」と申し上げましたが、もう少し詳細に考えてみます。ある団体が宗教団体であるかどうかは、
(1)教義,(2)布教・教化,(3)儀式・行事,(4)信者,(5)聖職者,(6)礼拝施設等の実体が存在すると明確に認めることが出来るかどうか、について考える必要があると思います。明治時代の神社信仰においては、(3)から(6)までの実体については全信者が明確に認めることができるのではないでしょうか。(1)の教義については仏教の経典やキリスト教の聖書のようなものは存在しないかも知れません。神社信仰にはその代わり祖霊信仰、自然信仰、清浄信仰という最高、最善の信仰があり、それらは日本人の日常生活の中に浸透しており、日本精神を土台で支えています。他の宗教に負けない教義であり、世界に誇ることができる教義であると思います。(2)については或いは太古の昔から、神職者や信者が布教教化活動を組織的にしていなかったのかも知れません。その点については深く研究していませんので明言できませんが、明治の神社信仰においては天皇陛下を始とする国家組織全体が深く神社信仰の布教教化に係わったのであり、最高最大の布教教化活動が行われたと断定して良いでしょう。日本国内での話ですが。

神社信仰の教義を国旗国歌のデザインや歌詞を使って理解しますと、大変分かり易いと思います。国旗の赤い日の丸は太陽を表し自然信仰を示しています。それは又天皇家の祖霊である天照大神でもあり、各国民の血のつながる祖先でもあり、祖霊信仰を示しています。国歌の君が代というのは天皇の御代即ち祖霊より連綿と続く日本の歴史であり、各国民の歴史であって、祖霊信仰を示しています。国旗の白地は清浄無垢を表し、自然環境の穢れ無きこと、即ち自然信仰と清浄信仰とを示しています。国歌の「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」は勿論小石が堆積して長年月の経過に伴い岩石となり、地表に現れてやがて苔が生え、草木が茂るという長い時間の経過と自然の移り変わりを表し、末永き御代を言祝ぐと共に自然信仰をも示しています。
素人の通り一遍の考察であり、単なる思い付きで、間違いも多々あろうかと思います。皆様方の御叱正を心からお待ち致しております。唯、これまで述べた事柄が単なる牽強付会でないことは、国旗のデザインや国歌の歌詞は、本居宣長の
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
という歌にも詠まれた大和心が生みだしたデザインや歌詞であることをお考え頂ければお分かり頂けると思います。
(記入:06/03/05 11:00 藍愛和) (最終更新:06/03/07 21:00 藍愛和)

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