日本の対外戦争と世界の情勢

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<<   作成日時 : 2006/01/29 20:14   >>

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日露戦争は 1904(M37)年に始まり、 1905(M38)年に終わりました。この頃のロシアの歴史について調べました。以下は「ブリタニカ国際大百科事典」のロシア史の項目をまとめたものです。他にインターネット等各種の資料も参照しました。日露戦争当時のロシアはツアーリと呼ばれる皇帝を中心とする絶対王政の時代、即ちロマノフ朝の時代でした。そして、王朝末期の民衆運動が対日戦争に敗れた原因の一つであり、更に対日敗戦が共産主義革命勃発の一つの原因となりました。各皇帝の前の数字は在位期間です。M37 等は明治37年等を表します。

911年 ルーシと呼ばれる北方民族が 9世紀前半ドニエプル川中流キエフに侵入した。ビザンティンと通商条約を結んだのが 911年で、ルーシが世界史に登場したと信頼できる最初の年である。

1237年-1480年頃 ロシアはモンゴル帝国の統治下に呻吟した。「タタールのくびき」という時、タタールはロシアにおけるモンゴル帝国の呼称である。

1613-45 ミハイル ロマノフ朝初代の皇帝 二大敵国ポーランド及びスウェーデンと平和条約を結び、イギリス・オランダの企業家に商工業の諸特権を与え、工業の基礎を築いた。一方シベリアを東進して、 17世紀前半には太平洋岸に達した。

1682-1725 ピョートル1世(1682-96イワン5世との共同統治) 1721年の人口約1750万人、国土約1200万平方キロ。 ボーランド、スウェーデン、トルコ、ペルシャ等と戦争し、バルト海・黒海・カスピ海へ進出した。なお、1716-35年享保改革時日本の人口は 3128万人(http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1150.html 参照)、国土約 377,835平方キロ(http://ja.wikipedia.org/wiki/1_E11_m%C2%B2) であった。

1762-1796 エカテリーナ2世 農奴身分者の増加と農民の蜂起。 二つの露土戦争(1768-74, 1787-92)。 フランス革命(1789-1794)の影響を恐れて啓蒙君主から、自由主義・進歩主義思想家に対する弾圧者へ。

1855-81(M14) アレクサンドル2世 農奴解放令(1861/3/3)。 革命運動の高まり。 皇帝暗殺計画(1866/4)。 自由主義者を退けて保守派を起用。 人民主義(ナロードニキ)。 テロリズム「土地と自由」、「人民の意思」。 女性革命家ベーラ・イワノフナ・ザスーリッチがペテルブルク総督トレポロ将軍狙撃(1879(M12))。 労働者S.N.ハルトゥリン冬宮爆破(1880(M13))。 M.T.ローリス=メーリコフは暴力革命を防ぐ対策として行政改革と財政改革を目指す改革案を進言。 その進言が承認されたその日、ソフィヤ・ルボフナ・ぺロフスカヤの指導する革命家I.グリネビツキーらによって皇帝暗殺(1881(M14)/3/13)。

1881(M14)-94(M27) アレクサンドル3世 皇帝の信頼する助言者 K.P.ポベドノスツェフ起草の勅令「皇帝は神によって専制権力を[擁護するよう選ばれたもの]である」という勅令が、大臣達の知らないうちに公表された(1881(M14)/5/11)。この勅令には先帝暗殺によって実行されなかったローリス=メーリコフの改革案を引き継ぐという約束もされていた。この約束はしかし再び K.P.ポベドノスツェフによって妨げられた。
ロシア正教以外の宗派は組織的に迫害された。新聞は箝口令をしかれ、革命団体は解散させられた。革命運動は息の根を止められた。世論は 1891(M24)年の大飢饉まで沈黙していたが、この年から革命運動復活の兆候が現れた。新しい運動は、 60年代、 70年代の人民主義とは違っていた。ロシアの社会主義者はマルキストになっていた。彼らはロシアは工業国になろうとしており、工業プロレタリアートの数が急速にふえていると主張した。
開発事業の拡大、外国資本の増大、関税と消費税は法外にふえた。穀物価格は下落し、農地分与は 1861年の農奴解放時に較べて、1861-1900(M33)年に 54.2パーセントに減らされた。 1883(M16)-1892(M25)年の 10年間に人口増が 16パーセントであったのに対し、税金は 29パーセントもふえた。こうして 19世紀の終わりに近づくにつれて、農業危機の要素が高まった。
アレクサンドル3世の外交政策は平和主義であった。 1881(M14)年第三次露獨墺三帝同盟。 1887(M20)年解消。 同年獨と「再保障条約」締結。 1890(M23)年解消。
1891(M24/5/11)年、琵琶湖湖畔で、当時日本に外遊していたロシア皇太子・ニコライに、滋賀県巡査が突如斬りかかる殺人未遂事件が発生したが、双方理性的に対処して事なきを得た。
アジアでは露の競争者英が獨と接近したので、露は仏と軍事協約を締結批准(1893(M26)-1894(M27))。1894(M27)年アレクサンドル3世死去。

1894(M27)-1917(T6) ニコライ2世 皇后アレクサンドラはヘッセン出身で、イギリスのビクトリア女王の孫娘(http://www.s-russia.co.jp/ayan/chart-2.html)であり、皇帝に大きな影響力をもっていた。ニコライ2世の専制政治志向はアレクサンドラ皇后によって終始一貫支持された。
ニコライ2世の伝統主義、ロシア主義、親政方針は国内的、国際的な多くの摩擦と暴力の原因となった。農業政策、工業政策の混乱、それに 1899(M32)-1903(M36)年の景気後退が重なり、無数のストとデモと暴力事件が起こった。革命運動は弾圧に比例して過激となり、国内の運動が警察によって阻止されると、社会民主主義運動は国外で活発となった(1903(M36)年以後)。

1890(M23)年代 この時代のロシア外交は、なによりもまず極東問題に向かっていた。いろいろな助言者から進言された相反する政策を取捨選択する能力が、ニコライ2世にはなかったことが、日本との戦争に追いやられた主な原因であった。
ロシアは、北満州ないしは全満州におけるロシアの優越と引き替えに朝鮮を日本に渡すという取引を拒んだ。ロシアは満州と朝鮮全部を保持することを主張したので、日本はまずイギリスと同盟してからロシアと開戦せざるをえなくなった。ロシアは数々の敗北を喫した。そしてついに 1905(M38)年5月、対馬海峡でバルチック艦隊は壊滅した。
日本は力を使い果たしていたので、ポーツマス条約により、ロシアはかなり有利な条件で講和を結ぶことができた。ロシアは朝鮮に対する請求権を一切放棄し、旅順港と南満州鉄道を日本に引き渡したが、北満州における地盤を確保し、シベリアとウラジオストクの連絡に不可欠な東清鉄道の管理を保持することができた。ロシアは樺太の北半分を保持でき、賠償金は支払う必要がなかった。

[コメント]ブリタニカはイギリス贔屓の書き方が疳に障りますが、身贔屓の部分を的確に指摘できるなら、一応信用して読むことができるのではないか、と思います。ロシアの歴史を日露戦争当時に絞って調べましたが、何だか昭和20年8月15日以前の帝国主義日本を見るみたいで、身につまされます。
日露戦争の勝敗を分けたものは外国の支持があるかどうか、ではないでしょうか。ロシアは黒海への進出で何度も後退を余儀なくされています。特に、英米独のロシアに対する警戒ぶりは厳重なものを感じます。
国際社会の流れを読むことは、政府・国民総てが常に留意しなければならないことです。自国の都合だけで無謀な行動に出れば、必ず懲罰的動きが自国に集中してくるでしょう。
強がりは、言うだけなら大人の態度ですが、負けるのが分かっている争いを引き起こすのは幼稚な態度です。勝つのが分かっていても、道理のない戦争は戦争犯罪です。
(記入:06/01/29 20:10 藍愛和)

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日露戦争・その二
日露戦争(1904(M37)/2-1905(M38)/9)前の日露外交交渉について、外務省編纂・外務省蔵版 日本外交文書 第三十六巻自明治三十六年一月至明治三十六年十二月 第一冊 日本国際連合協会発行 事項一 満韓に関する日露交渉一件 から引用します。大日本帝国の対露交渉に於ける清韓両国に対する方針は、露国の清韓両国に対する方針と「瓜二つ」であります。即ち、日本は福建・韓国の植民地化を、露国は満州・韓国の植民地化を、それぞれ最終目標としています。 各文書の最初にある [6/23一]等は[... ...続きを見る
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2006/06/11 12:02

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