日本の対外戦争と世界の情勢

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zoom RSS 日清戦争・その三

<<   作成日時 : 2005/11/13 11:58   >>

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日清戦争では、朝鮮の国内事情が開戦の大きな原因となっています。勿論、世界の植民地化という歴史的な流れの中に最大の原因を見出すのが妥当でありましょうけれど・・・。資料として、主に
  東京博文舘蔵版 日清戦争実記第壱編 
  明治二十七年(1894)十一月八日第拾九版
を使用し、朝鮮の当時の内情を調べたいと思います。

まず、韓国宮廷事情について、或る程度の予備知識を持ちたいと思います。
国王: 高宗
大院君: 国王の生父・李昰応 院政を布く陰の実力者
閔氏(びんし): 王妃 外戚の閔氏一族は大院君と政治権力を争った。外戚の王妃一族が権力を握るのは李王朝の伝統とか
(参照)興宣大院君(Wikipedia):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%A3%E5%A4%A7%E9%99%A2%E5%90%9B

朝鮮の国内事情と諸外国の対応
1894年(明治27年)以前
1866(慶応2) 国王幼少の為、大院君に実権 保守鎖国の政策 カトリック教徒弾圧 朝仏事変 米武装商船ゼネラル・シャーマン号事件
1871(M4) 朝米事変 1873(M6) 大院君失脚 閔氏一族の台頭
1875(M8) 日朝間江華島事件 1876(M9) 日朝修好条約(江華島条約) 
1877(M10) 天主教徒と宣教師との国外追放

1882(M15) 朝鮮政府軍兵士が朝鮮軍教師となった陸軍中尉堀本禮造氏以下七人の日本人を殺害、日本公使館を襲撃、放火し、巡査一人を殺害、公使は英国測量船に救助される。これは大院君一派による閔氏一派襲撃の巻き添えにあったものと言われている。日本の出兵と共に、清国も出兵し、大院君を清国に連れ帰る。このため朝鮮政府は開国説を取り、襲撃事件処理についての日本の要求を受け入れた(済浦物条約)。この後、朝鮮政府は進歩、保守の二党が反目しあい、それぞれ日本、清国と手を組んだ。
(参照)済物浦条約(Wikipedia):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E7%89%A9%E6%B5%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84

1884(M17) 12/4 開国党一派の朴泳孝、金玉均等が保守党一派を襲撃し宮廷を占拠。韓国国王の求めで日本兵百余名は王宮を護衛。清将袁世凱か清国兵二千で王宮を包囲。所が国王は閔氏一族の頼った清国軍に移られた。日本兵は王宮を退去。清国兵・韓国兵により、日本兵、居留民の多くが殺傷・暴行をうけ、公使館も放火されたと言う。
1885(M18) 1/6,7 日韓間紛争解決の為、特派全権大使井上馨は国王に閲し、又協議をして仁川条約を結ぶ。4/3 日清間紛争解決の為、伊藤博文特派全権大使と李鴻章特命全権大臣とが天津で協議し、 4/18 天津条約調印。この事変での居留民殺傷・暴行は結局証拠なしで、不問となった。日清間の不信感は一挙に増大した。
1889(M22)-1893(M26) 朝鮮防穀事件 日本への米穀移出禁止 日本に多大の損害 賠償交渉起こる。 この間、日本の公使は近藤真鋤氏から梶山貞助氏そして大石正己氏へと入れ替わった。大石正己氏は民権自由派の反政府闘士との事。

1894年(明治27年)
3/28 1884年のクーデター事件の関係者の一人金玉均が上海で暗殺され、死屍は清国軍艦で朝鮮に運ばれ、手足は寸断されて八道に遺棄され、頭と胴は楊華津頭に梟せられた。3, 4月には、前年度蜂起し鎮圧された民衆暴動が再発した。東学党の乱である。金玉均の亡霊が暴徒の先頭にて指揮を執るなどの妄説が流布した。
6/8 清国は朝鮮に出兵した旨、日本に報道した。その報に曰く。「朝鮮政府の依頼で出兵した。東学党平定せば天津条約に従い直ちに撤兵する。」
6/10 大鳥公使京城に入り、公使館周辺に兵を配置する。[新聞集成 明治編年史第九巻によれば、この頃軍隊の進退及び軍略に関する記事の記載は禁止されている。従って、この後の戦争関連の日付は余り明確には分からない。6/8 日本は朝鮮に出兵した旨、公にした。曰く「日本政府は朝鮮の内乱に関し、同国在留の官民保護の主旨を以て、遂に軍隊を派遣することにした。」(6/9 時事 新聞集成 明治編年史第九巻より)]
日清戦争実記より、「清国の派兵は韓国宮廷の依頼により、内乱鎮撫の為になす、故に内乱平定せば直ちに帰国するを当とする。我はしからず。公使館領事館及び居留民保護の為にす。故に苟も危険の虞存する間は駐在することもとより其の分なり。」

6/? 外国軍の存在を嫌う韓国宮廷内外において、清国出兵を要請した閔氏一族の権臣閔泳駿追放の声が噴出し、失脚した。 国王は弊政改革の詔勅を発し、 6/15 大鳥公使の改革方案勧告により、人事を刷新した。(実は日本撤兵を求める為にこの挙に出たもののようである。)
6/29 東学党の乱、鎮定。招討使李元会京城に凱旋。
7/18 韓国政府は日本の出兵に疑義を懐き、日本の撤兵後に改革を実行すると称して、日本の改革方案勧告を拒否した。
7/23 日本軍、突如王宮景福宮を占拠。国王、日本軍保護の下に大院君を召す。事大党の政府は廃されて、大院君の政府となる。露国公使舘の書記、日本公使館に至り、日本の軍事力行使・内政干渉を詰る。大鳥公使は軍事行動の根拠と、内政干渉の理由を明確に返答して、露国言う所なし。

[コメント]日清戦争前夜の韓国宮廷を巡る日本の駆け引きは、さながら明治維新の勤皇派対佐幕派のせめぎ合いを見る思いです。薩長政府には「予行演習ずみ」の、手慣れたものであったでしょう。しかし、国内での交渉と国際上の交渉とには自ずから区別すべき一線が有る筈です。それは、家庭内の揉め事と、近所の揉め事とは自ずから対処の仕方が異なる筈であるのと同様ではないのか、というのが一庶民としての感想です。日本は土足で朝鮮に踏み込んだ、と諸外国は見たでありましょう。内政問題に外国が過剰介入する大義はありません。しかし、国際問題には世界の各国が介入する権利を主張する筈であります。国内紛争用の戦略・方策・名分・論理は、国際紛争には使えないことを銘記すべきではないでしょうか。国内紛争では相手は大抵唯一つです。国際紛争では相手は何十と居ます。国内紛争では一つの相手を力で押さえれば、勝ったものに大義があるとしても非難する者は居ません。国際問題では何十の相手を黙らせるだけの力と大義が無ければ遂には失敗するでありましょう。
次は、日清戦争当時の日本と諸外国との外交交渉はどうであったかを調べたいと思います。
(記入:051113 12:05 藍愛和)

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ニシザワショッパーズ・春近大橋店を、約10年勤務して退社しました。
ニシザワグループ・褒章おめでとう、教科書販売の栄誉。
紀宮様、ご成婚おめでとうございます。
経済社会の中でよりいっそうの、規制緩和を希望します。(ダイエー・政治)
国税徴収法を改正して、みんな公的資金を投入できるようにしよう。
自由民主党の、票田政策じゃないか。
票田政策
2005/11/15 23:48

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